来世ガチャ乱数調整日記

Lily, Bass & Programing

百合について

こんにちは、びしょ〜じょです。だんだん秋らしくなってきた。読書の秋。百合の秋。

今年はなんとなく自分を否定してみた。愛飲しているコカコーラは実はまずくて、惰性で飲んでいるとか、本当は百合は好きじゃないとか。
だが、なんとなく自分のTwilogを見たら、自分は最低でも週5日は"百合"が含まれるツイートを必ずしていた。さらに、1周間の"百合"が含まれるツイートを合計すると最低でも20個ほどになった。やっぱ好きなんすね〜。


百合について


そもそも百合との出会いはと言われると記憶が曖昧だが、『ゆるゆり』1期は観たし、2012年の正月にお年玉で『ささめきこと』1〜8巻を購入して9巻を爆速で予約注文したことは覚えている。『ゆるゆり』かもね。 しかしプリキュアも無印から全部リアルタイムで観ていたしなぁ。
まぁそこは置いといて。百合も言ってしまえば恋愛モノの一ジャンルなわけだ。では、他の恋愛モノとの違いは何なのか。
ボクが思うに、両者ともに女の子であることですね。いや、まぁそうなんですが。以下をご覧ください。

男性が女性を養う、守るという形から、女性同士で支えあっていく、対等な関係であることが自分の中では矛盾なく入ってくる。
先に言っておくが、女尊男卑とかそういう話をするわけではない。
物語の初期ではフニャチンな男がこれといった成長もなく、最終話で俺が守ってやるみたいなケースはいくつか散見されうんざりする。
百合においては(少なくともボクが見てきた百合作品では)いっしょにがんばろうエイエイオーといった相互の補完関係になり、納得の行く物語になる。

もうひとつは、男性が居ない、あるいは脇役になるので、作品の中の登場人物で物語が完結する。
これは何かというと、ノンケモノで言うところのヒロインに対する恋人♂、つまり読者♂の二次元写像に当たるものがおらず、読者に媚びる必要が減るのである。
これにより不可解な温泉回やチラリ、ラプラスの魔も予測不能なラッキースケベなどによるテンポの悪さが解消される。

そして、友達のような恋人のような甘酸っぱい、なんともいえない間柄である。
街中を二人で手をつなぎ歩いても、一緒にお泊りしても、背中流しっこしても、女の子同士なら付き合っていなくてもそれほど不自然ではない。ノンケカップルでこれをやられたらもう非難轟々ですね。 女の子同士だから付き合う前にこんなイベントを(読者に不自然がられず)することができる。しかも付き合ってもこのイベントたちは何度でも起き得る。この感じはノンケモノでは再現不可能だ。


男性が出なければ百合というお前は一つ大きな勘違いをしている。お前が百合と信じて見ている作品を見ているお前の股間を見てみろ。それから作品をよ〜〜〜く見てみろ。作中の女性と目が何度か合うだろう。作中の女性の谷間や尻がお前の目に映るだろう。
そうだよ、その話は彼女たちで完結していない。視聴者、読者であるお前を含めて物語を進めている。お前に見られているていで話が進んでいる。
上に書いたものは一部間違いであり、話の受け手のクローンが物語に直接関わらなくとも、登場人物は暗に受け手に対する話し手という役割を担っている。
話し手が受け手を意識しすぎると、その物語は受け手であるお前を登場人物の一人として舞台にマッピングしている。透明人間か、あるいは汚いおっさんか。 透明人間の男が物語に登場してしまうと、その男を喜ばせるための物語になる。それは百合と呼べるかー否。
その点で、(百合作品ではないが近い存在として挙げると)『ゆゆ式』は完全に彼女らで話が完結している。


なお、これらは全てボク個人の考えであり、云々。

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